〈spill〉 素材:小瓶、雨もしくは涙、pH指示液 / 2020
〈spill〉

 世界が常に流動していることを、人間の目に見える形として現れ認識できる物事としての“雨”と、世界に内包されている人間が世界を受動しながら変容するとき、個人の内的世界を通過した反応的な行為(泣くこと)によって現れる“涙”をマテリアルとして、継続的に採取し、標本として並べている。

 [作品の構造について]
 私にとって“採取する”という行為は、“涙”と共通した内発的な要因として自動的に行われるものである。意識よりも行為が先立つ場合、行為の理由を内的必然とし認識できる範囲でその行為性を分析する事ができる。“採取する”という行為は世界を循環する水の動きをとどめ、目に見える状態、また未分の存在としての状態を保持するはたらきがある。またそれを“標本”とするために、採取したマテリアルの性質を色で示すpH指示液を加えて着色し、自己の内的な地点を示す言葉を添える。標本となったマテリアルの個々を比較すると現れているものに見えない変容が起こっていたことが分かる。また標本とすることで涙は私より外的な方向へとあり方が移動し、雨は世界より内的な方向へ移動する。ここで標本は内でも外でもない未分する立ち位置に存在することが分かり、それは標本それぞれが内/外の概念を持って“ひとつのモノ”として世界に含まれるようになるということだ。  この作品〈spill〉は、流動の地点を縮図として表すとともに、未分類のものを未分した状態のままでそのあり方を保証する。


[ 作品における“私”についての考察 ]
世界に対して内包されながら受動する“私”は、世界の流動に伴うように変化する。ここに、作品制作のプロセスを組み込むと、作品の立ち位置は“世界を由来として私を媒介して時空間に固定されたモノ”となる。この概念的な“世界→私→作品”の繋がり方は作品〈spill〉で重要な要素となっている。作品のマテリアルには内的な“涙”と外的な“雨”の2つを扱っており、涙は私の身体を実際に媒介して現れるものとして、雨は外的世界の現象が現れ間接的に私が受け取るものとして有る。この2つの性質から、私が介入する内外の深度が大きく異なることが読み取れる。そのため無自覚に意識している自身の内または外への視野の変化や立ち位置の転換が、そのときのマテリアルを採取するかどうかの選択によって現れる。自身の状態の変化が液体の本体以外から読み取れることから、作品は“私”の地点を示すものであるという認識ができる。〈-作品の構造について〉で述べた“流動の地点を縮図として表すとともに、未分類のものを未分した状態のままで、そのあり方を保証する。”というのは、作品それ自体に言えることでありながら、行為と身体として介在した“私”にも当てはまる。私が居ることに関する、時間軸の全てを確認することが出来るのである。というのは、未分の状態のまま宙に浮いた記憶のような言葉に対して確実な物質が保証される事実が、標本となる瞬間(今)、蓄積した標本(過去)、定めた方法の上で示唆される現象(未来)をも保証するということだ。
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